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黙観自我:「問題」と「答案」の弔詭なる思想行動
許哲睿の写真作品《答案》をめぐって——「問題」と「答案」の弔詭なる思想行動
本文は姜麗華氏の中国語原文を段落ごとに翻訳したものです。相違がある場合は中国語原文を正とします。
許哲睿の写真作品『答案』に記された「問題」と「答案」を丹念に読み込もうとすると、かえって「答案」と称されるもののなかに囚われてしまう。これらは本当に「答案」なのだろうか。私たちは「問題」と「答案」をとおして、真確な(真に正しい)知識を得られるのだろうか。この「知識」と称されるものは、はたして私たちに力/権力をもたらしうるのか。それとも、見れば見るほど、いっそう多くの困惑と疑問を生むばかりなのか。あるいは、標準解答をただ丸暗記した学生時代の記憶へと引き戻すのか。私たちは見当もつかないかもしれない——許哲睿はなぜ、さまざまな学科(国語・英語・数学・歴史・地理・公民・物理・化学・生物・地球科学・国防など)の「問題」と「答案」をとおして、いったい何を伝えようとしているのか。画面の人物がことさらに異なる姿勢と手ぶりをとるのは、私たちに何かを暗示しているのではないか。
実験的な「現在進行形」の学習指導要領に直面する、いまの世代の台湾の学生たちは、規律訓練された標準解答を黙って受け入れるべきなのか、それとも省察を提起する勇気をもつべきなのか。許哲睿は自ら「思想国術」を編み出すことを選び、武術鍛錬のさまざまな「姿勢(ズーシー)」——「知識(ズーシー)」との同音(中国語の諧音)——をとり、「馬歩を蹲みながら拳理を解さぬは、身法を蹲み殺すに等しい」[1]という一句によって、意味を求めずに暗記して得た知識を嘲弄する。そこから彼は問う——「知識は権力である(knowledge is power)」のか、それとも権力をもつ者だけが知識の形成を掌握しうるのか、と。知識と権力の弁証について、フランスの思想家ミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926–1984)は、知識の本質はすなわち権力であると考えた。権力は遍在し、他者の言動を左右し、統制さえしうるからである。彼はさらに、社会はあたかも監視された円環状の監獄(パノプティコン)のごとくであり、権力をもつ者は獄舎を見渡す高塔をとおして、人々が社会の規範に従うさまを監視すると指摘した。そして近代とはまさに、「非思を思考する律法」[2]というこの弔詭なる思想行動を構築することであり、そうしてはじめて私たちは自己を認識する機会をもつ。だが「私は誰か」というこの答えは、千古の昔から人を狂おしく問い続けさせてやまない。フーコーは予言した——人間は、海辺の砂に描かれた顔のように、やがて潮に洗い消されるだろう、と。[3]
許哲睿は4×5の白黒フィルムで自らを撮った『答案』シリーズの肖像作品において、いまの台湾の教育界にあふれる雑多な「問題」——三民主義、地震、原子力、半導体工場、高齢化、注音(発音記号)や諧音のネタなど、歴代の試験問題——を前胸に刻み、「答案」はといえば、ことさらに後背へ現れるようにした。それは「自分でさえ見ることのできない答案を前に、どうやって前へ進めばよいのか」[4]を象徴する。同時にそれは、「学びの目的があまりに功利主義的になると、試験をやり過ごすために丸呑みで学ぶことになり、試験が終われば知識(答案)を頭の『後ろ』へ放り捨て、何を学ぶべきかを他人に委ね、他者によって思考や価値観を強引に『植えつけ』られる」[5]さまを伝える。満点百点を追い求める「試験の王」を暗喩する画像もある——その王は、はたして国を正しい方向の標準の道へと治めうるのか。試験の国民はさながら試験機械と化し、規律に従って解答せねばならない。よく答えた者には「話す権利/権力」が授けられ、これに背く者は淘汰され廃棄される。長年にわたり試験制度への省察を提起してきた許哲睿はこう言う——「教育は権力者の思考を反映し、学校は巨大な洗脳機構と化し、試験とは誰がより徹底的に洗脳されたかを競うものだ」。しかし実のところ、私たち一人ひとりが生に対して抱くさまざまな価値判断には、正しい標準解答などない。「私たちは誰か」「誰であるべきか」は、誰かが標準の答えを定めうるものではない。学生の学習の能力や成果は、真確な知識をもつことと同じではない。人生の叡智としての知識は、実際の生の体験をとおして得られるべきものであって、紙上(試験用紙)の空論たる武術の型稽古にすぎぬものではない。
『答案』の映像制作をとおして、許哲睿は、世代を異にする社会の人々に、自らの就学期に経験した大小さまざまな試験を思い起こさせ、そこで得た「知識」と称するものが、いまなお脳裏に残っているかを問おうとする。彼は自撮りによって自らの身をもって法を試し、試験の功利的制度が、権力をもつ者をして「暴力をとおして思想を同化させ、『人』への信仰を鋳造」せしめ、そして「人」が試験のためだけに「生き延びる」ものへと変えられていくさまを探究する。[6]これに鑑みれば、現代人は「非思を思考する律法」という弔詭なる思想行動を追求してこそ、進んで真に自己を認識しうる。私が存在してはじめて思考しうるのであり、「自我を問題化」せねばならないからである。許哲睿は「問題と答案」を自らの身に刻み、「自我の問題化」をとおして、試験制度の「問題」と「答案」の弔詭を提起し、非思の弔詭なる行為を省察する。彼の勇敢な「真実を語る」思想行動は、フーコーが『フーコー 真理を語る』において人間の「真実を語ること」を問題化し、「真実を語る」とは単に「真実を語る」ことではなく、それ自体が一つの社会的行為であること——「真実を語る」者とは、あえて危険を冒す者であること——を明らかにしたのと、まさに軌を一にする。そして来たるべき「真実を語る」哲学者とは、絶えず黙観自我(自己を静かに観ること)を創り直しつづける芸術家なのである。
註釈 Notes
[1] 許哲睿によるアーティスト・ステートメント。
[2] 楊凱麟 〈思考非思:傅柯的人學問題性〉(「非思を思考する——フーコーの人間学の問題性」)、《國立政治大學哲學學報》第49期、2023年1月、25頁を参照。
[3] フランス語原文を参照:« l’homme s’effacerait, comme à la limite de la mer un visage de sable. » Michel Foucault, Les mots et les choses : Une archéologie des sciences humaines, Paris : Gallimard, 1966, p. 398.
[4] 許哲睿によるアーティスト・ステートメントを参照。
[5] 一部は許哲睿によるアーティスト・ステートメントを参照。
[6] 一部は許哲睿によるアーティスト・ステートメントより引用。

左から:許哲睿、呂筱渝(パリ第八大学 女性・ジェンダー研究 博士、台湾写真博物館文化学会 事務局長)、姜麗華(パリ第一大学 造形芸術研究所 博士、国立台湾芸術大学 専任教授)、楊鎮豪(国立台湾大学 写真研究会 技術指導、台湾写真博物館文化学会 監事)。